清は中国史において最後の王朝です。日本史では日清戦争で戦った国として有名ですね。
中国は大陸に位置するため、近隣の民族の侵攻によって王朝の入れ替わりが続きました。そんな中、清は12代皇帝まで268年も続きました。15代将軍まで265年続いた江戸幕府と同じくらいですね。
また、この時代は近隣諸国だけではなく、海から欧米列強の国々も進出してきます。このような背景の中で、アジアの大国であった中国の王朝が、清の時代に権威を失っていきます。本記事では、衰退に大きな影響を与えた史実について、清が滅亡するまでの約1世紀についてまとめたいと思います。

清の概要

建国

清王朝の始祖は満州人のヌルハチといい、1616年に後金という国号で建国しました。2代目の皇帝ホンタイジの治世にて、1644年に国号を清に改めます。

領土の拡大

後金が建国された時、中国大陸の大部分は明が治めていました。1644年に明が滅亡し、領土を拡大していきます。やがて、今の中国とほとんど同じ領域を治めるようになります。

衰退

1800年頃から内乱や外国との戦争が続き、1912年に最後の皇帝が廃位して清王朝が滅亡します。

内乱と戦争

19世紀に起こった主な内乱と戦争は次の通りです。

名称 期間(西暦) 区分 主導者、相手国
白蓮教徒の乱 1796〜1804 内乱 白蓮教徒
アヘン戦争 1840〜1842 戦争 イギリス
太平天国の乱 1851〜1864 内乱 洪秀全
アロー戦争 1856〜1860 戦争 イギリス、フランス
清仏戦争 1884〜1885 戦争 フランス
日清戦争 1894〜1895 戦争 日本

白蓮教徒の乱(1796〜1804)

白蓮教は仏教系の宗教結社ですが、過激思想により弾圧されることも珍しくありませんでした。
第6代皇帝の乾隆帝は全土で白蓮教の取り調べを命じましたが、官吏が捜査の名目で金銭を収集し、無関係の民衆にも被害が及んだようです。
次の皇帝の治世でも民衆の不満は募り続け、白蓮教徒を中心とする民衆の反乱が起こります。反乱には数十万人が加わったとされ、清朝政府はこれを弾圧したものの、巨額の費用がかかりました。この損失を補うために増税が課され、民衆の不満はその後も続くことになります。

アヘン戦争(1840〜1885)

イギリスでは紅茶の需要が高く、清との貿易で紅茶などを大量に輸入していました。その一方で清に輸出できる品が少なく、イギリスは貿易赤字に悩んでいました。
そこでイギリスは、当時の自国領であるインドで生産できるアヘン(麻薬)を清に密輸し、清でアヘンを流行らせることで輸出を増やしました。清朝政府としては、国内で麻薬が蔓延する上に、アヘンの輸入量が大幅に増加したことで貿易赤字にもなり、アヘンの密輸を取り締まるようになります。
イギリス国内でもアヘンの密輸に対しては批判も多かったようですが、議会で賛成派が僅差で多かったことから開戦に踏み切ります。
清は戦争に敗け、イギリスに多額の賠償金を支払い、香港も割譲することになりました。

太平天国の乱(1851〜1864)

キリスト教徒の洪秀全が起こした反乱です。洪秀全は宗教団体を立ち上げており、貧困層を中心とする入信者も反乱に加わりました。貧困の背景としては、アヘン戦争の賠償金や貿易赤字による増税がありました。1853年には南京を制圧し、太平天国という王朝を立てました。
しかし、太平天国の内部で指導者による内紛が生じるようになります。1864年には洪秀全が病死し、首都が陥落しました。なお、清朝はこの間に後述のアロー戦争にも参戦しています。

アロー戦争(1856〜1860)

アヘン戦争によって、清国内では外国人排斥の運動が出てきます。実際に清国内でイギリス人が殺害されたりしました。
また、1856年に港に停泊していたアロー号というアヘンの密輸船に対して、清の官憲が検査を行い船員を海賊容疑で逮捕しました。これに対してイギリス領事のパークスは、アロー号はイギリス領(香港)船籍の船に対する検査は不当であると抗議しました。
これを発端として両国の対立が深まり、イギリスは共同出兵に応じたフランスと共に出兵しました。
清はアロー戦争にも破れ、またも賠償金を支払います。また、貿易の自由化やキリスト教の布教活動を全土で認める条約に批准します。

清仏戦争(1884〜1885)

当時は東南アジアに西欧諸国が進出していました。そんな中、フランスがベトナムを植民地化する動きが出ます。当時ベトナムの宗主国であった清がこれに反発し、フランスとの戦争に発展します。
清は善戦もしましたが、最終的にベトナムの宗主権を放棄し、ベトナムはフランス領となります。

日清戦争(1894〜1895)

清は日本とも緊張関係にありました。当時の李氏朝鮮(朝鮮の王朝)では重税による農民反乱が起きており、自力での鎮圧に手こずった李氏朝鮮が清に救援を要請しました。一方、日本は清と共同で朝鮮の内政改変を持ちかけましたが、清に拒否されました。
この時、清を宗主国とみなしていたのは李氏朝鮮のみでしたが、日本は朝鮮の独立を支持します。この対立が日清戦争に繋がり、敗戦した清は多額の賠償金を支払います。日清講和条約が調印され、朝鮮は清から独立した大韓帝国となります。

義和団事件(1900〜1901)

上述した一連の内乱と戦争で、清は弱体化しました。さらに、1900年に義和団事件が起こります。

義和団とは

白蓮教徒の組織です。「扶清滅洋(清朝をたすけ、西洋を討つ意)」を掲げていたため、当初は清朝にとって敵対関係にはありませんでした。
しかし、「滅洋」のために教会や大使館を襲撃し、外国が敷設した鉄道の破壊活動も行いました。また、外国人の外交官(日本人を含む)を殺戮しました。
これにより、日本や西欧など8カ国が干渉し、義和団を弾圧しようとしました。

清朝の態度の移り変わり

清朝は義和団の暴動に対して鎮圧の姿勢をとっていましたが、8カ国の過度な干渉に反感を抱きます。そして、清朝は義和団に味方し、8カ国に対して宣戦布告します。
連合軍に破れた清朝はまたも賠償金を支払い、義和団も見捨てたため、民衆の清朝に対する不信感は増大することになりました。

各省が清朝から独立

清国内の資本家による列強への抵抗

清朝は、一連の戦争で多額の賠償金を支払うだけでなく、鉄道敷設の権利なども戦勝国に奪われていました。これに対して、清国内の資本家が鉄道敷設の権利を買い戻し始めます(利権回復運動)。
しかし、清朝は賠償金を支払うために外国に借款しなければならず、鉄道を借款の担保にしたいと考えます。そこで、資本家が買い戻した鉄道を、国有化しようとします。
これに反発した資本家たちと清朝が衝突し、四川で暴動が起こりました(1911年)。

清朝新軍の反乱

清朝は一連の敗戦により、西洋技術を取り入れて軍を強化していました(以降、新軍と称します)。四川暴動の鎮圧には新軍を向かわせましたが、新軍の内部にも清朝に反感をもつ者が少なくなく、資本家たちの革命派に協力するようになります。
新軍は蜂起し、武昌を占領しました(武昌蜂起)。この流れに各地が呼応し、24省のうち14省が清朝から独立しました

中華民国の建国

独立した省の合意により、1912年1月1日に中華民国が建国されます。中華民国の代表者である大総統には孫文が選ばれました。
清朝で軍を率いて権力を持っていた袁世凱は、孫文に取引を持ちかけます。袁世凱に中華民国の大総統の座を譲るのであれば、清の皇帝を廃位させるという取引でした。孫文はこれに応じたため、袁世凱は皇帝を廃位させ、清朝の歴史は幕を閉じることになりました。

あとがき

19世紀は内乱と戦争が続き、清朝にとっては激動の時代だったと思います。敗戦により賠償金の支払いが生じて財政を圧迫し、それによって増税の負担を強いられた民衆が反発するという負のスパイラルが続いたことになります。
アヘン戦争はイギリスの都合を押し付けられたように思えますが、イギリスの議会で反対派が上回っていれば、その後の流れは変わっていたのかもしれません。また、中国の王朝が周辺国の宗主国という立場を失いつつも、嫌が応にも近代化に向かうことになりました。
本記事では大まかな流れを掴むことを目的としたため西太后などの重要人物に触れませんでした。個々の出来事についても割愛したつもりなのですが。。改めて調べて見ると、清末はいろいろな出来事があって驚きました。