初等教育の目的の変遷(明治〜戦前)

社会
いらすとやからの写真

現行の教育システムについて、個人的に疑問に感じることがありました。そこで教育の目的を調べてみたのですが、これまでにも政府や教育関係者たちによって様々な見直しがされていたことがわかりました。あまりに多くの検討がされているので、本記事では明治〜戦前の初等教育を対象に整理したいと思います。

明治時代の教育

明治新政府の教育目的

江戸時代における庶民の教育は藩によって行われており、読み・書き・算術が中心でした。一方、明治新政府は欧米から知識と技術を取り入れて国富を強化することが重要と考え、科学技術も教育に取り入れます。政府の指導者を育成する目的で大学が設置された一方で、国民皆学を目指す初等教育の普及にも力を入れます。天皇を中心として国がまとまるためにも、すべての国民が同じ倫理観を共有するような教育が必要であったと考えられます。

第二次小学校令

教育システムを整えるのは容易ではなかったようですが、明治23年(1890年)の第二次小学校令において、小学校の目的が初めて明示されました。具体的には、「道徳教育」、「国民教育」、「生活に必要な知識と技能の教育」の3つです。

この小学校令において、特に注目すべきことの一つは、その第一条に小学校の目的が明示されるようになったことである。すなわち「小学校ハ児童身体ノ発達二留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と定めた。それまでは小学校は普通の教育を児童に授ける所であるという程度の規定が設けられていたに過ぎなかったが、この時から目的規定を明示するようになったのである。

当時は尋常小学校と高等小学校の2段階に分かれており、科目は次の通りでした。

種類修業年限科目
尋常小学校3、4年修身・読書・作文・習字・算術・体操
高等小学校2〜4年修身・読書・作文・習字・算術・体操・日本地理・日本歴史・外国地理・理科・図画・唱歌・裁縫(女子のみ)

修身は現代の道徳に近い科目です。

第三次小学校令

明治33年(1900年)には第三次小学校令と小学校施工規則が制定されました。注目される点を3つ挙げます。

  • 満6〜14才の8年間を学齢とし、保護者は児童を就学させる義務を負うとした
  • 公立小学校の授業料を原則無料とした
  • 各学年の終了認定は、認定試験の合否ではなく平素の成績の考査に基づくとした

当時の就学率は81.5%でしたが、初等教育を義務教育とすると同時に、授業料や児童の負担を軽減することで、政府は更なる就学率の向上を目指しました。7年後の明治40年(1907年)には、就学率が97.4%まで向上しました。明治政府が目指した「国民皆学」が、概ね達成できたと考えられます。

大正時代の教育の見直し

大正時代の教育については、目的よりも方法について注目すべき動きがありました。

一斉教授方式の弊害

今では学級ごとに一人の教員が教えるのが一般的ですが、江戸時代の教育は自学自習が基本であり、師は手本となったり助言を与える存在でした。これに対して明治政府はすべての国民に一律に知識と技能を効率的に教育するため、西洋で普及していた一斉教授方式を取り入れました。
しかし、具体的な授業の進め方がすぐには教員に理解されなかったこともあり、一方的に教え込む形式的な教授方法となり、子どもの学習意欲を培う側面が欠落しているという指摘もあったようです。

教授から学習への転換

上述のような教授方式に対する問題点が指摘されるようになり、生活に基づいた子どもの自学を重視する私学校が現れます。このようなタイプの学校は「新学校」と呼ばれています。19世紀末から20世紀初頭にかけて、国際的にも「子どもから」をスローガンとする児童中心主義の教育思想が流行していました。
大正時代はいわゆる大正デモクラシーと言われる民主主義や自由主義の思想が広まったこともあり、教育についても自由な思想を取り入れる動きが波及しやすかったのだと考えられます。

新学校の問題点

新学校では時間割に基づく授業ではなく、一人ひとりの子どもの学習進度に合わせた対応をする必要があったため、教師の負担は比較的大きくなります。また、新学校は主に私学校だったため、経営を維持することも容易ではなかったようです。
また、国家権力による新教育への干渉や弾圧もあり、新学校は衰退していったようです。当時は天皇陛下の暗殺を計画する社会主義者の過激派もいたことから、政府は自由主義的な思想に対して警戒していたと考えられます

海外の軍事情勢に警戒した大正から昭和初期

大正3年(1914年)に始まった第一次世界大戦により、海外では大規模な国家間の戦争が繰り広げられました。昭和初期にかけて、日本もそのような世界情勢に影響を受けるようになります。なお、ここからは初等教育だけでなく、中等教育についても触れます。

アメリカによる軍事力の制限

第一次世界大戦によって世界各国が軍事力を強化しようと試みましたが、一方で軍事拡張による経済負担も大きくなっていました。このため、当時のアメリカの大統領ウォレン・ハーディングの提案により、英米日仏伊の5カ国の海軍が保有する戦艦に制限をかける条約が、大正11年(1922年)に結ばれましたワシントン海軍軍備制限条約)。
この条約により、日本が保有する戦艦は、排水量で比較するとアメリカの6割になりました。代表団の一人であった加藤寛治海軍中将は対米7割の戦艦保有を主張していましたが実現せず、アメリカに対して警戒を強めるようになります(最大の仮想敵国がアメリカになったようです)。

陸軍の要望による軍事教練の導入

さらに世論の要望もあり陸軍も軍縮されたようです。これに対して、軍事力を補いたい陸軍は、国民に対する軍事の予備教育の実施を求めました。このため、大正14年(1925年)に陸軍現役将校学校配属令が公布され、小学校の卒業生が進学する公立の中等教育機関(中学校など)では、配属された陸軍現役将校の指導の下で軍事教練を行うことになりました。

戦時体制に即応するための教育体制の整備

昭和14年(1939年)になると、戦時体制に即応するための学校制度改革が実施されます。

義務教育機関の延長

まず、第二次青年学校令の改正により、尋常小学校を卒業して中等教育機関に進学しない男子は、原則として青年学校に就学することが義務付けられました。青年学校は、昭和10年(1935年)の第一次青年学校令に基づいて設置された学校であり、尋常小学校を卒業してから実務に従事する(当時は進学できる中学校の数が少なかった)勤労青少年を対象とした社会教育機関の役割を持っていたようです。
これにより、男子の義務教育期間は、尋常小学校での6年間に青年学校での7年間(普通科2年+本科原則5年)を加えた13年間に延長されることとなりました。青年学校での教育は軍事教練や職業訓練の役割も少なくないと思いますが、国民の知的水準を向上させることが義務教育機関を延長した主目的だったようです

皇国民の錬成を目的とした初等教育への転換

昭和16年(1941年)には国民学校令が公布され、初等教育機関が小学校から国民学校に改められました。これまでの小学校の目的が「道徳教育」、「国民教育」、「生活に必要な知識と技能の教育」の3つであったのに対して、国民学校の目的は「皇国民の錬成」に集約されました
教室には神棚が設けられ、低学年児童も含めて朝礼時の宮城遥拝(きゅうじょうようはい:皇居の方向への敬礼)や隊列行進などが強制されたようです。

おわりに

明治から戦前にかけての教育史を概観しました(個人的に気になったことだけ抽出しました)。制度の変更は頻繁にあったようですが、政府による公教育の目的は第二次小学校令で掲げられた「道徳教育」、「国民教育」、「生活に必要な知識と技能の教育」であったことは比較的一貫していたように感じました。
ここで、現代(2019年11月時点)の教育目的を見ると、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を目指すと書かれています。

(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

敗戦により「平和」と「民主的」が明記されたのが特徴的ではありますが、「道徳教育」、「国民教育」、「生活に必要な知識と技能の教育」の3点も不要になったわけではなく、現代でも重要な観点だと思います。
本記事で触れなかった戦後の教育史でも、様々な試行錯誤が見られます。現代の教育システムに対する疑問は感じますが、一から見直すよりも教育史を参考に考える方が有意義だと思いました。

タイトルとURLをコピーしました