日本が真珠湾攻撃に至った経緯

歴史
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自分の中である程度整理できたので、日本が真珠湾攻撃に至った経緯について記事にまとめることにしました。

本などで調べてわかったのは、当時のアジア情勢がかなり複雑だったことです。全然理解不足であることは承知していますが、流れの軸は追えた気がします。また、国によって見方も変わるはずですが、本記事では日本の立場で整理します

19世紀末のアジア情勢を把握するところから始めます。

西欧列強によるアジア侵略

西欧列強による東南アジアの植民地化

産業革命後、西欧列強は原料や市場を獲得するため、東南アジアの国々を植民地にしていきました。19世紀末の勢力図は下図のようになります。

19世紀末における東南アジアの勢力図
(出典:世界の歴史まっぷ

タイを除く東南アジア諸国が西欧列強の植民地になっているのがわかります。また、清もアヘン戦争で香港をイギリスに割譲しており、国内でも内乱が起こっていたため、清朝政府は苦境に立たされていました

朝鮮を列強の侵略から守るために

清まで侵略の手が伸びてくると、日本は当然警戒したと思います(西欧よりも、ロシアの南下を警戒していた?)。朝鮮半島まで列強が進攻してしまうとさらに危機感が増します

朝鮮にとってはもっと深刻です。当時の朝鮮(李氏朝鮮)は清を宗主国としていました。その清が弱体化していたため、朝鮮内部では親清派と親日派で意見が分かれていたようです。

やがて朝鮮は内乱を抑えることができなくなり、親清派と親日派の争いは清と日本の戦争に発展します(日清戦争)。これに日本が勝利し、1895年の下関条約によって清から日本に遼東半島、台湾(下図参照)などが割譲されました。

日清戦争で日本に割譲された遼東半島と台湾
(出典:もも先生のお料理と時事問題

また、朝鮮が清の属国ではなく独立国であることを、清に認めさせました。なお、その後の1897年に、朝鮮は高宗を皇帝とする大韓帝国(大韓民国ではない)になります。

列強の干渉と進出

しかし、下関条約のわずか6日後、ロシア・フランス・ドイツが遼東半島を清に返還するよう日本に要求してきました(三国干渉)。この三国には力で勝てないため、日本は要求を呑みます。

さらに、遼東半島を返還させた見返りとして、なんとロシアは清から旅順と大連(遼東半島の港)を租借します(1898年)。ロシアにとって、不凍港である旅順と大連は、極東側の重要な軍事拠点になります

旅順と大連の位置
(出典:歴史年代ゴロ合わせ暗記

日清戦争で、日本人の千人以上が戦死、一万人以上が病死しています。そこまで戦って獲得した遼東半島の重要拠点を、ロシアはなんの犠牲もなく手に入れたことになります。

なお、清が日本に敗けたことに乗じて、ドイツ・イギリス・フランスも清に港を割譲させています。イギリスとフランスは、軍事拠点というより貿易拠点にしたかったのだと思います。

ロシアの南下

ロシアの満洲駐留

清の内部では、西欧列強の進出に不満をもつ民衆が義和団を結成し、外国人やキリスト教会を襲う動きが広まりました。

当時の満洲に鉄道を敷いていたロシアは、鉄道を義和団から守るという名目で満洲を占領し、義和団が鎮圧された後も満洲に駐留したようです

満洲の位置(注:当時の朝鮮半島は南北に分かれていません)
(出典:賢者の説得力

ロシアが朝鮮半島に進攻し、日露戦争に発展

満洲まで占領したロシアは、1903(明治36)年5月に大韓帝国の龍岩浦(朝鮮半島の付け根にある地域)を武力で占拠しました。この事件をきっかけに日露の対立が深まり、日露戦争に発展します。

日露戦争にて、日本は重要な拠点となる旅順を落とします。また、日本海海戦でも日本がロシアのバルチック艦隊に勝利しました。

しかし、日本軍にこれ以上ロシアと戦う余力は残っていませんでした。そこで、日本海海戦終結の4日後となる1905(明治38)年6月1日、日本政府はアメリカに日露講和の斡旋を申し入れました。同年6月9日に講和会議が始まります。

交渉は難航したものの講和はなんとか成立し、同年9月5日にポーツマス条約が調印されました。ロシアは遼東半島の租借権と、南満洲鉄道を日本に譲渡しました。

南満州鉄道の経営を狙うアメリカとの摩擦

アジア進出を狙うアメリカ

ところで、西欧列強に対して、アメリカはアジア進出に乗り遅れていました(アジア諸国にとっては進出されても困りますが)。

一方で、アメリカは満洲での鉄道事業に参入して利権を得たいと考えていたようです(鉄道は当時のアメリカの基幹産業でした)。

日露戦争の戦費調達に貢献したアメリカ

日露戦争についてはすでに述べましたが、日本が強国ロシアと戦うためには莫大な軍事費が必要でした。国内だけでは調達できず、多くを外債で賄いました。

日銀副総裁だった高橋是清が、外債を売るために欧米に渡りました。英米の銀行家や産業資本家が、多くの外債を買ってくれたようです。その中の一人に、アメリカの鉄道王ハリマンもいました。

小村寿太郎がアメリカの提案を破棄

ハリマンは、日本に対して南満州鉄道の共同経営を提案します。当時の首相であった桂太郎は、日本にとってもハリマンから資金と技術を提供してもらえた方が良いと考えます。明治天皇の内諾も得て、桂・ハリマン協定(仮条約)に調印しました。

しかし、その後にハリマンと入れ違いで帰国した外相の小村寿太郎はこれに激怒し、桂・ハリマン協定を破棄してしまいます。さらに、清との条約にも、日清以外の国(つまりアメリカ)が南満州鉄道経営に関与しない旨を加えました。

アメリカは戦費調達と講和に協力したにも関わらず、南満州鉄道での商機を逃したことになります。アメリカはこの時から、日本に対して不信感をもつようになったと考えられます

ただ、アメリカは日本に貢献したとはいえ軍事的な協力はしていません。小村にとっては、南満州鉄道は多くの日本人の犠牲の上に獲得したものであり、アメリカが利権を得るのは許せなかったのかもしれません。

混迷する中国大陸の情勢

清朝が倒され軍閥が割拠する時代に

国内外の争いに追われた清朝は、1911年の辛亥革命によって孫文らに倒されます。翌1912年1月、中華民国が樹立します。清朝で権力を持っていた袁世凱が、孫文に手を貸したことで中華民国の初代大総統に就任します。

しかし、その後に袁世凱と孫文は対立します。袁世凱が1916年に死去すると勢力がさらに分かれ、複数の軍閥が割拠するようになります。

蒋介石の北伐

1925年に孫文が死去し、蒋介石が後を継ぎました。蒋介石は中国大陸南部を拠点にしていましたが、1926年7月から他の軍閥を倒すために北進を始めます(北伐)。

北伐の進路と勢力図
(出典:世界の歴史まっぷ

ところで、北京と南京の間に、山東省の中心都市である済南があります。済南は、1904(明治37)年に外国に開かれてから国際的な商業都市になっていました。そのため、外国人居住者が多く、昭和初期には約二千人の日本人が住んでいたようです

1928(昭和3)年4月、この済南に北伐軍が迫ると、日本政府は日本人居住者を保護するために五千人規模の軍を山東省に送り込みました。しかし、日本人居留民の死者が出たことから両軍が対立し、本格的な戦闘に発展します(済南事件)

済南事件については様々な見方があるようです(参考:南京事件-日中戦争 小さな資料集)。いずれにせよ、済南事件は日中関係が悪化した大きな要因だと考えられます

満洲事変から支那事変へ

日中間で互いに不信感をもつ中で、1931年には南満州鉄道が爆破される事件が発生し、日中両軍が交戦します(満州事変)。

満洲の日本軍(関東軍)は中国だけでなくロシアも警戒しており、政府の方針とは別に独自で動いたこともあったようです。また、中国の革命軍も当時の情勢を踏まえると統制がどの程度取れていたか疑問があり、一部の過激派が独断で非軍人に危害を加えることもあったのではないかと思います。

やがて中国全土で抗日運動が拡がっていき、1937年には北京郊外の盧溝橋で何者かが発砲したことをきっかけとする交戦が生じました(盧溝橋事件)。中国側の抗日運動が激しくなるほど、日本側も日本人居留民を保護するための軍投入を避けられず、盧溝橋事件以降も両国の武力衝突が続いたようです(支那事変)

支那事変にアメリカが介入

アメリカから蒋介石政権への支援

1937年12月以降、日本が南京を攻略すると、蒋介石の国民党政府は内陸の重慶に移転します。

しかし、反日の姿勢をとっていたアメリカが蒋介石の政府に対して物資を支援していました。アメリカからの物資は、中国南側に隣接するフランス領ベトナムから送られていました。

一方の日本では軍事物資を減らさない対策が必要になります。

物資を求めて南方へ

当時の戦争では石油が必須ですが、日本は国内で石油を手に入れることができません。日本はこれまで満洲など北方に軍を配備していましたが、1940(昭和15)年から資源を求めて南進を始めます。

中国に隣接するベトナムはフランス領でした。フランスはドイツに降伏して弱っていたため、日本は日本軍の進駐などを認めさせる協定(松岡・アンリ協定)をフランスと結びました。協定が結ばれたのは同年8月30日でしたが、9月23日に日本の陸軍がベトナムのフランス軍に攻撃、降伏させてしまいます。結果的には、武力進駐となってしまいました。

欧米諸国が対日輸出を禁止

日本軍がベトナムに進駐すると、アメリカは屑鉄などの対日全面禁輸に踏み切ります。次いでオランダが日本への石油輸出を禁止、アメリカも対日石油禁輸を発表しました。

真珠湾攻撃までの2週間

アメリカからの最後通帳

1941(昭和16)年11月26日、日本に「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」(いわゆるハル・ノート)が手渡されました。そこには、中国及び印度支那から一切の軍事力と警察力を撤収することなどが書かれていました。

欧米諸国は中国に利権を残したまま、長年戦って犠牲を払ってきた日本だけを中国大陸から追い出すようなものです。警察力まで撤収するなら、中国大陸に居住する日本人の安全も守れません。

そもそもアジアに欧米列強が侵略してきたことが日本にとって脅威だったのですが、日本の力が削がれて中国まで強大になってしまえば、日本の安全は脅かされ続けるでしょう。欧米諸国は中国での通商が目的なので、安全が脅かされれば撤退すれば済む話です。しかし、隣国の日本は侵略される危険があるのです。

なお、日本はアメリカとの戦争にならないように8ヶ月近く対話を求め続けていました。一方、ハル国務長官がはじめに起草した暫定案も、日本への禁輸緩和の条件が示されるなど、交渉の余地があるものだったようです(結局、日本に提示されることはありませんでした)。

日米開戦を決議、真珠湾攻撃へ

日本は12月1日の御前会議にて、アメリカとの開戦を決議します。そして12月8日、山本五十六率いる連合艦隊が、真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃しました。

ただ、アメリカの日本大使館員の不手際により、日本からの最後通帳がハル国務長官に手渡されたのは真珠湾攻撃のあとになってしまったようです。このため、アメリカからは日本が奇襲したように捉えられることになります。

おわりに

まとめ

  • 19世紀末、欧米列強による東南アジアの植民地化が進んでいた
  • 大国だった清が内外から弱体化され、日本はロシアの南下を警戒した
  • 中国の情勢が混迷になり、大陸の治安を守るために日本軍も戦った
  • アメリカが蒋介石を支援し、日本への石油輸出を禁止する
  • ロシアや中国よりもアメリカが日本の脅威となり、日米開戦となった

感想

ある程度理解できたと思って書き始めましたが、読み返すとなんとも言えないですね。。一つの記事でわかるようにまとめるのは無理があるようです。もちろん私の理解不足もありますが。

日清戦争や日露戦争に至る経緯ももっと複雑ですし、1932年の満洲国建国や1939年のノモンハン事件にも触れる余裕がありませんでした。事件一つとっても様々な見方がありますし、本記事もあくまで私の見方にすぎません。

それでも、短絡的な侵略目的で日米開戦に至ったわけではないことは、よく理解したつもりです。あとは戦後についても整理したいです。気力があればですが。。

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