神武天皇と推古天皇

歴史
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皇統について考えます。今回は、日本の古代史に欠かせない神武天皇と推古天皇について書きたいと思います。

神武天皇(初代天皇)

神話の神々から繋がる系譜

古事記や日本書記に書かれている通り、初代の神武天皇は伊邪那岐(イザナギ)の子孫と言われています。令和に改元されたこともあり、最近は系譜がわかりやすく書かれた資料が簡単に見つかります。

神話が史実か真面目に考える必要はないと思いますが、神話から現在まで皇族の血統が途切れず続いている国は日本だけです

神武東征

神武天皇は日向国(今の宮崎県あたり)にご生誕になりましたが、やがて東に向かい(東征)、奈良に都を築きました。奈良の地に初めて都を構えた天皇が、神武天皇と考えられます。

建国記念の日

2月11日は建国記念の日です。これは、神武天皇が即位された日だと考えられています。西暦でいうと紀元前660年に建国されたことになります。
古代の日本では春から秋まで(太陽暦の半年)を一年としていた期間があると考えられていますが、それでも日本が歴史のある国だということがわかります。

推古天皇(第33代天皇)

初の女性天皇

先代(第32代)の崇峻天皇は、権力争いの流れで蘇我馬子に殺められてしまいました。歴代の天皇は男性でしたが皇子は若かったため、推古天皇が初の女性天皇として即位されました

摂政、聖徳太子の外交

推古天皇の甥である聖徳太子が、推古天皇の摂政になりました。

聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し、隋の皇帝である煬帝に国書を届けました。国書は、有名な次の書き出しで始まります。

「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。」

すると煬帝は、自分と対等な立場で「天子」を名乗られたことに腹を立て、小野妹子は送り返されてしまったようです。
対等な立場を崩すわけにはいかないと考えた聖徳太子は、新たな国書を携えた妹子を遣わします。その国書では、次のような書き出しにしたようです。

「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」

煬帝と同じ称号は避けつつ、対等な関係を築こうとした聖徳太子の外交努力が見て取れます。「天皇」という称号がいつから使われていたのかは調べていませんが、対外的に用いたのはこの頃が初めてなのではないでしょうか。

権力と権威の分離

世界史上、継承者争いによって王朝が途絶えることは珍しくありませんが、日本の皇統は今日まで受け継がれてきました。その理由の一つに、天皇が権威を持ちつつ、強い権力は有していなかったことが考えられます。

推古天皇の御代に権力争いが起きたとすれば、摂政として政治を任されていた聖徳天子が狙われていたと思います。鎌倉時代や江戸時代など、天皇が大きな権力を持たなかった時代は長いですが、そのような王朝は世界的に珍しいと言えます。

おわりに

神武天皇と推古天皇について簡単に触れただけですが、二千年以上続く皇統について思いを馳せるには十分だと思います。建国記念の日は取り上げましたが、他の祝日についても整理したいです。

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